音楽好きなら誰しも、世間的な名盤とは別にきわめて個人的な「マイ名盤」を心に秘めているものだ。音楽の趣味も世代も異なるヂラフライターたちのマイ名盤とは? 気になる感性の持ち主を見つけたら、そのライターのほかの記事もぜひチェックしてみてほしい。新しい音楽との出会いが待っているかも。
最深部から見える新しい世界
『ワールドワールドワールド』(2008年)
ASIAN KUNG-FU GENERATION
2008年、15歳の春にずっとイヤホンから流し続けていた。私は入学から4ヶ月足らずで高校を中退しているのだが、その短い学生時代を振り返るとなぜか通学バスで『ワールドワールドワールド』を聴いていたことをよく思い出す。
前作『ファンクラブ』から2年を経てリリースされたのが『ワールドワールドワールド』で、このアルバムは『ファンクラブ』とは対の印象を受ける。『ファンクラブ』で心の内側に向かっていた視点が『ワールドワールドワールド』では外に向けられていくのだ。
だが当時の私は、いつかこのアルバムの曲のように自分が新しい世界に旅立てるような気持ちが全く持てなかった。いつも何かに苛立っていた。にぎやかな通学バスの中で、この世の果てまで来てしまった人のような、あるいはどこにも行けない亡霊のような顔をしていた。
履き潰された学校指定のローファー。通学バスの喧騒。噂話。悪口。ノートに散りばめられたプリクラ。携帯のストラップ。スカートの丈のごまかしかた。自分だけが孤独だと思っていた。自分のことをわかってくれる人はどこにもいないと思っていた。あのころの傲慢。あのころの無知。あのころの寂しさ。
あんなに切実だった感情も、10年以上経った今思うと恥ずかしくなることばかりだ。
このアルバムは『新しい世界』という楽曲で締め括られる。高校生だった当時はあまりピンとこなかったのだが、今聴き返すとまた違った印象を受ける。あのころ「新しい世界」は選ばれた人だけのものだと思っていた。でもそれは違った。自分の今持っている世界を塗りかえることができるのは、おそらく自分だけだったのだ。
箱庭の中で眠る
『diorama』(2012年)
米津玄師
切実に求めているのに、それが自分には与えられないことを知っている。
高校を辞めてから4年が経ち、私は写真を撮ることにのめり込んでいた。シャッターボタンを押せば手軽に自分だけの世界が作れる。どんどん内向的になっていった時期だった。当時よく聴いていたのが、米津玄師の『diorama』で、起きてから眠るまでずっとループ再生してスピーカーから流していた。
『diorama』は米津玄師のファーストアルバムで、収録曲は「ゴーゴー幽霊船」「vivi」「恋と病熱」など。ボカロP・ハチからアーティスト・米津玄師へと踏み出した一歩目となる作品だ。自分だけの箱庭的な世界が描かれており、内側の世界に目を向けた楽曲が多くみられる
『diorama』を聴いた自分が求めていたのはなんだったのか。何に共感してこのアルバムをこんなにも聴いていたのか。「恋と病熱」や「首なし閑古鳥」を聴いては毎晩のように泣いていたあのころ、求めていたのは「ここではないどこかにあるはずの自分の居場所」だったのだと思う。自宅にいるのに、自分の好きなものにかこまれた部屋にいるのに、どうしても帰る場所がここだと思えなかった。どこかに自分の居場所があるはずだった。そこに帰りたくて、でも帰ることはできなかった。
箱庭の中は雑多でにぎやかな街なのに、その根底には愛情と理解者と居場所を渇望する圧倒的な孤独の気配が漂っている。
いつか全てを許せる日まで
『ねえママ あなたの言うとおり』(2013年)
amazarashi
アルバムタイトルとジャケットのイラストとタイトルに惹かれて、amazarashiがどんな音楽を作っているのかも知らずに手にとった。2013年、レンタルCDショップでのことだ。
このアルバムの最後の曲「パーフェクトライフ」を何度も何度も繰り返し聴いていた。
当時20歳だった私は相変わらず労働も進学もせずにふらふらと写真を撮っているだけのただの穀潰しで、何かができる気もしなかったし何かになれる気もしなかった。無気力に布団の中でFacebookを開いて、スマホの中でかつての同級生が大学生だったり社会人だったりしているのを見ていた。
amazarashiの楽曲は聴く人に優しく寄り添うようなものではなく、心の深くにある誰にも見られたくない部分、自分ですら目を逸らしている部分を暴くような音楽だ。でもそんな「見て見ぬふり」がまったく通用しない音楽だからこそ、多くの人を惹きつける。
夕方、窓を開け放ってベッドで天井を睨んでこのアルバムを聴いていた。いつかくるであろう未来で、自分が今息をしていることを許せる日がくるのだろうか。そんなことをずっと考えていた。
痛みを忘れた自分を殺し、泣けないかわりに口ずさむ
『イマジナリー・モノフィクション』(2014年)
ヒトリエ
2014年から数年後までヒトリエの音楽を聴き続けるきっかけになった最初のアルバムが『イマジナリー・モノフィクション』だった。ボカロP時代の楽曲「ローリンガール」「ずれていく」「アンハッピーリフレイン」などもずっと部屋で流し続けていたのに、ヒトリエのwowakaがボカロPのwowakaと同一人物だと気づいたのは少し後のことだった。
21歳になりたての冬。劣等感にまみれていた時期だ。大学進学や就職どころか、高校も卒業できずアルバイトさえ満足にできない自分に苛立ち以外の何の感情も持てなかった。死んでくれと思っていたし、この先生きていてもきっとどうしようもないだろうと思っていた。何ひとつとして誇れることがなく自分のことが心底嫌いだった。
「アンチテーゼ・ジャンクガール」は聴くたびに鳩尾を強く殴られるような感覚がする曲で、このアルバムで最も再生した回数の多い曲だと思う。
寂しさと劣等感と孤独と諦念を抱えながら生きていてもいいのだということを、生きるべきなのだということを、私はヒトリエの音楽に教わった気がする。
誰かの幸せを願うこと
『透明な傘の内側より』(2012年)
GOOD ON THE REEL
相変わらず写真を撮っていた。撮るだけではなく展示をするようになっていたので以前より誰かと話す機会や外出の頻度が増えた。
何がきっかけだったかは忘れたが、この時期に知り合った友人がいる。甘いものと音楽が好きでよくお茶をしながらおすすめの音楽を教えてくれた。GOOD ON THE REELを知ったのもこの友人がCDを貸してくれたからだった。
『透明な傘の内側より』は2012年にリリースされたGOOD ON THE REELのファーストフルアルバムで、収録曲は「迷走」「ホワイトライン」「ハッピーエンド」など。GOOD ON THE REELは情感あふれる楽曲が素晴らしいのは勿論だが、曲にぴったりとはまるタイトルをつけることにも長けていると感じる。短く簡潔なタイトルなのにちゃんとそこにある風景が見えてくる。
友人とは地元を出てから疎遠になってしまった。たまにツイッターを見るかぎりでは今も元気にしているようで、時々私のツイートに「いいね」を押してくれる。
甘いものが好きなわりにとても痩せていた。なぜかナッツが苦手だった。可愛らしいお店をよく知っていた。顔もよく思い出せないのに、そういうどうでもいいことばかり憶えている。
鮮やかな色彩、目の眩む光
『Fantastic Magic』(2014年)
TK from 凛として時雨
東京の夜は奇妙に明るい。街灯の光がビルの窓ガラスに映っている。白い息を吐きながら歩道橋の階段を一段ずつとばしてのぼる。写真展をするため1週間ほど東京に滞在していた時、深夜から明け方まで一眼レフカメラを片手に街を徘徊をしていた。
プリズムというものがある。プラスチックやガラスなどでできている光を反射・屈折・分散させる透明体で、光学素子として一眼レフカメラなどに使用されている。理科の実験で使う三角プリズムがもっとも一般的だろうか。見たことのある人は多いと思う。
光を受けて輝くだけではなく屈折させて虹を作り出したりするそれは、なんとなくTKの音楽に似ている気がする。
いつか自分にしかない色と光を見つけることができるのだろうか。歩きながらそればかり考えていた。立ち止まることもあったしすぐ先の未来すら見えなかったが、それでもとにかくここまで歩いてきた。
このアルバムを聴いていると音の粒が輝いているような映像が浮かぶ。奏でられた音が光を受けて、そこになかったはずの鮮やかな色を作り出す。TKの作る「音」は、それ自体がまさにプリズムであるのだと感じる。
愛を知る幸福と本物の孤独
『フェイクワールドワンダーランド』(2014年)
きのこ帝国
コンビニでの早朝アルバイトが終わるのは朝9時で、晴れた日はタイムカードを押してから朝ご飯とアイスコーヒーを買って少し散歩することにしていた。その時に必ず聴いていたのがこのアルバムだ。
『フェイクワールドワンダーランド』は誰かと生活を共にする時のやわらかな愛と、その中にある透明な悲しみが描かれている楽曲が多い。そこで歌われる悲しみ、あるいは孤独感は「切ない」「寂しい」という言葉では到底表現できないほどに深く透き通ったもののように聴こえる。
愛を感じているのに悲しいなんてことはあるのだろうか、とこのアルバムを聴くたびに考えた。愛されていたら悲しくなんてないだろう。愛されているくせに悲しいと言うのか。そう思っていた。だがそれは若さ故の無知と傲慢だった。
愛と悲しみと幸福と孤独がそれぞれ全く違う領域のものであることも、誰かといる時のほうがひとりの時よりもずっと悲しく孤独であるということも、あのころ私は何ひとつ知らなかったのだ。
きのこ帝国は愛と孤独を同時に奏で、同時に歌うことのできる稀有なアーティストだ。その特徴が色濃く出ているのがこのアルバムだと思う。愛と孤独は別々のものではないということを、かれらはちゃんと知っている。
遠回りして見た美しい風景
『all right』(2016年)
NUNNU
よく見える場所に飾っている思い出の写真みたいだ。それを見ていると楽しかったことを思い出して微笑んでしまうが、それと同時に少しだけ寂しくなる。過ぎた時間は永遠に戻らず、人は前にしか進めない。NUNNUの音楽はそれを理解している。
実家を出て横浜の花屋でアルバイトをしていた。やってみて初めてわかったのだが、経済的にも精神的にも自立した生活を送るということは当時の私にはかなり難しいことだった。ほとんど毎日「どうして他の人たちができていることが自分にはできないのだろう」と思って泣いてばかりいた。そんな時期によく聴いていたのがこのアルバムだった。
人生に重要な意味などなく、それはただゆるやかに過ぎていくだけのものである。それを知りながらも私たちはこりずに泣いたり笑ったりして、好きなことを見つけたり見つけなかったり、誰かを愛したり愛さなかったりする。
『all right』を聴くと良いことも悪いことも含めて人生で、どちらも持って生きていていいのだと思える。人間の平熱くらいの温もりでひとりひとりに寄り添い続けるアルバムである。
やがて消える命だから
『火炎』(2019年)
女王蜂
この人が歌いだす数秒前は、たとえそれが画面越しだったとしても空気が張り詰める。何もかもを研ぎ澄ませて命をかけて歌う。女王蜂のボーカル、アヴちゃんはいつもそんな歌い方をする。
「メメント・モリ」という言葉を思い出した。創作の世界でわりによく見かける言葉で、意味は「死を思え」。自分がいつか死ぬことを忘れるなかれという警句である。
女王蜂の『火炎』は圧倒的な力を持ってそこにある。いつか消えることを知っているからこそ大きく燃え、聴く者の内部にある小さな火までも巻き込んで増大していく。
私たちには過去があり、現在にいて、未来が待っている。だが内にある炎を燃やせるのは今この瞬間だけだ。過去も未来も、燃え盛る炎の前では所詮少しの焚き木にしかならない。
新しく風が吹き、また走り出す
『Dororo / 解放区』(2019年)
ASIAN KUNG-FU GENERATION
雨上がりにスカートの裾をひるがえして走る。破り捨てた地図が風に舞い上がる。過去の記憶と現在が重なり、選んだ道が間違っていなかったことを知る。
小さいころ自転車の練習をしたことを思い出した。補助輪を外して走ることが怖かったが、不安定な時はいつでも誰かが後ろを支えていてくれた。支えて、背中を押して、私がひとりで走り出せるようにしてくれていた。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの音楽はずっとそういう存在として鳴っている。
最初、「Dororo」が陰なら「解放区」は陽だと思っていた。でも何度か聴くうちにこの二つの楽曲は正反対ではなく、どちらも暗闇の先にある微かな明かりを手繰り寄せる歌だと感じた。
スクールバスでぼんやり『ワールドワールドワールド』を聴いていたあの時から10年以上の時が流れたことになる。息がしやすくなり視界が広がって、好きなものや好きな場所、好きな人たちが増えた。くだらないことで笑い、泣きたいときは泣けるようになった。
「生きていてもいい気がする」とふいに思い、そう思えたことが嬉しく、私は駆け出した。
(文・望月柚花)
(カバー撮影・髙田みづほ)