札幌のライブハウスを守り、音楽文化を広める「LIVE HOUSE AID in SAPPORO」 ミュージシャン・村田知哉さんインタビュー

三橋 温子

三橋 温子

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多くのミュージシャンや音楽ファンに衝撃を与えた、札幌すすきののライブハウス『COLONY』の閉店。そのニュースから3日後の4月15日にスタートしたのが、札幌のミュージシャンたちによるチャリティーアクション「LIVE HOUSE AID(ライブハウスエイド)in SAPPORO」だ。

発起人は札幌出身のシンガーソングライター、村田知哉さん。小6で初めてライブハウスに足を踏み入れ、中学時代には出演者として初めてステージに立った。以来、数多くのライブハウスと関わってきた村田さんが立ち上げた「LIVE HOUSE AID in SAPPORO」とは? 現在は関東に住むご本人に、偶然にも同い年で同じ札幌出身の編集長・三橋が電話インタビューを敢行した。

LIVE HOUSE AID in SAPPORO
札幌のミュージシャンが提供する楽曲をオンラインコンピ(クラウドストレージ上のオムニバスアルバム/1,000円)にまとめて、その売上を札幌の4つのライブハウスへ寄付するプロジェクト。参加ミュージシャンと楽曲は随時追加され、一度購入すればいつでも聴けてダウンロードもできる。


ミュージシャン発信にこだわったライブハウス支援企画
——この企画を始めようと最初に思い立ったのはいつ頃ですか?

始める1か月ほど前の3月中旬です。ちょうどその頃「SAPPORO ROOM FES」(札幌のライブハウスなどで行なわれた無料在宅配信型ライブサーキット)の第1弾をやっていて、僕も東京から参加させてもらったんですけど、そのときに「ライブハウスを支援したいミュージシャンは声をかければ集まるんだ」という印象を受けたのがきっかけです。

実はこの「SAPPORO ROOM FES」は、僕が2011年にUstreamでやった「UST ROOM FES」という配信サーキットが原型で。

——そうだったんですね。「SAPPORO ROOM FES」は以前ヂラフでも紹介させていただいて、わたしも自宅で観ながら札幌の音楽シーンの熱さを思い出していました。

情熱をもった地元のミュージシャンたちが集まれば、大きなムーブメントになるのではと感じましたね。それで「村田会議」というYouTube配信を始めて、そこでいろいろ喋っていたときに思いついたのが「チャリティー音源をオムニバスアルバム形式で販売する」というアイデアでした。

3.11のときにチャリティーCDをライブで販売したことがあるんですが、ひとりにしてはけっこうな額が集まったんですよ。人は誰かのためだったらお金を出せるし、その体験そのものがリターン以上の喜びになり付加価値になる。そのことを知れた経験がアイデアのベースになっています。

——現在はクラウドファンディングやグッズ販売を通じた支援が増えていますが、あえてそういう形にしなかった理由はありますか?

まず、ライブハウス発信ではなくミュージシャン発信の支援にしたかったからです。ライブハウスが個別で募るクラウドファンディングは確かにお金が集まりやすいですが、熱意ある文章を書いたりリターンの用意をしたりとライブハウスの負担が大きい。お客さん目線でいえば、リターンでもらえるものはある程度決まってきていたし、今すぐ楽しむのは難しいものが多いという印象でした。

また、クラファンやグッズ販売で得られる支援金はあくまで一時的なもの。それももちろん重要ですが、僕がこれからやるべきことは、コロナが収束したあとにライブハウスがV字回復を図るための土壌をつくることだと考えました。オムニバスアルバムの販売という形なら、支援金集めと同時に札幌の音楽文化をみなさんに紹介することができる。そこからライブを観にいく人や音楽を始める人が増えれば、長期的な支援につながるのではないかと思ったんです。

札幌の音楽シーンを支えたライブハウスを忘れたくない
——売上を寄付する4つのライブハウス(SPIRITUAL LOUNGE、Sound lab mole、SOUND CRUE、BESSIE HALL)はどう決めたのですか?

僕がとくにお世話になったライブハウスです。本当は『COLONY』も入っていたんですよ。でも閉店が決まってしまって…。

閉店のニュースが出たその日にミュージシャン向けに企画書のようなサイトをつくって、まずは知り合いのミュージシャンにガンガンDMを送りました。そうしたらバンド界隈に顔の広い音楽仲間が参加者集めを手伝いたいと言ってくれて、スタートまでの2〜3日でけっこうな数を集めることができました。スタート後も参加表明をしてくれる方が続々と増えています。

——参加ミュージシャンが増えるごとに、クラウドストレージにアップされたオムニバスアルバムの収録曲も増えていくという点がユニークです。今は何曲くらい集まっていますか?

70曲くらいですね(4月21日現在)。基本的に1アーティスト1曲を提供いただいていて、今は1日3曲ずつくらいのペースでアップしています。もちろん僕も全曲聴いて、ジャンルや世代を考えながら対バンを組むみたいに選曲しています。配信ライブをされる際には告知を兼ねてゲリラリリースするなど、PR的な使い方もしていますね。

——高校時代に観ていたThe Jerryの曲がいち早くアップされていて感激しました。あと、今はもう活動していないAddictionも。Vo./Gt.の大谷京介は高校の同級生で、「LIVE HOUSE AID」のことも彼から聞きました。

The Jerryは、Vo./Gt.の長内さんから参加の連絡をいただいて、大好きなバンドだったので「最初に出していいですか」と相談しました。Addictionも大好きでよく観ていたので、曲を提供してもらえて嬉しかったです。

札幌の音楽シーンを支えたライブハウスやミュージシャンはいつまでも忘れたくないし、多くの人に知ってもらいたい。販売に使用しているネットショップシステムのSTORESにはレビュー機能もついているので、みなさんの思いをぜひ綴って共有してほしいです。今がんばっているライブハウスにとっても大きな励みになると思います。

——先日ロックバンドのtoeが立ち上げた「MUSIC UNITES AGAINST COVID-19」も、さまざまなアーティストが参加する楽曲ダウンロード型の支援企画として話題になっていますね。

あのプロジェクトが始まったとき、すごく安心したんです。僕のやり方は間違っていなかったんだって勇気をもらえた気がしました。あれだけ多くのメジャーアーティストを巻き込んだ企画ですから、かなり前から水面下で動き始めていたんだと思います。僕もお世話になったライブハウスを支援させていただきました。

「LIVE HOUSE AID」を、新たなミュージシャンが生まれるきっかけに
——村田さんが音楽を始めたのはいつ頃ですか?

小6のときにMr.Childrenが好きでアコギを始めて、中学に入ってからは黒夢を好きになってエレキを始めました。バンドを組んで初めてライブをしたのも中学時代。今はもうない『遊音』という小さなライブハウスでしたね。

——『遊音』! 懐かしい。わたしもよくライブを観にいきました。その後バンドからシンガーソングライターへシフトしたきっかけは?

世代的にご多分にもれずBLANKEY JET CITYやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTにも夢中になりましたが、高校に入ってゆずを好きになって。卒業後には弾き語りで路上ライブをしながら本州をまわったりしていました。札幌のライブハウスにもたくさんお世話になりましたね。今回の企画で支援する4か所や『COLONY』をはじめ、『musica hall cafe』『LOG』などとても挙げきれません。

そして20代後半のときに全国流通盤CDを出すことになり、そのアルバムを引っさげて上京したという感じです。ただ、その後は音楽活動を一旦休んでいて、2年くらい前から曲づくりを再開するようになりました。

——休んでいた期間は何をされていたのですか?

札幌にいた頃に副業でライターをやっていたので、東京の会社に入ってWebライティングの勉強をしていました。4年前に独立してWeb広告制作会社を立ち上げて、今も会社を経営しています。

——そうだったんですか! 「LIVE HOUSE AID」はいろんな角度からマーケティングがなされているなと感じていましたが、どうりで…合点がいきました(笑)。今回、会社経営と並行してプロジェクトを始めた原動力は、やっぱり恩返しがしたいという気持ちでしょうか。

もちろんそれもあります。あとは、僕自身の青春時代を思い返すと、ライブ活動に情熱を注いできた時間はかけがえのないものだったなと思うんですよ。この先、札幌の若い子たちのそういう時間が奪われるのはかわいそうだし、残していくべきだと強く感じています。

「見放題」という大阪のライブサーキットイベントがあるんですが、その企画運営をしていた潮大輔a.k.a.Dai-changは僕に、人を集めて動かすことの意義や素晴らしさを教えてくれました。僕は当時「札幌でもライブサーキットをやる!」と息巻いていましたが、結局実現できずに、Dai-changは急病で帰らぬ人になってしまった。その後悔を今こそ晴らして形にしたいという思いも、動機づけになっていると思います。

——村田さんから見て、今の札幌の音楽シーンはどのような印象ですか?

THE BOYS&GIRLSやそのVo.のワタナベシンゴ、The Floorなど、勢いのある若い世代がたくさん出てきています。東京に出てチャレンジすることもひとつの選択ですが、THA BLUE HERBやsleepy.abのように、人気が出ても拠点を移さずに札幌をPRしてくれるミュージシャンがもっと増えたらいいですよね。

5Gが普及すれば地方在住ミュージシャンも増えそうなので期待しているところ。そうなれば地元の支援がますます大事になってきますが、今回のコロナショックでライブハウスやミュージシャンやイベンターがひとつに結束しつつあるので、それはいい傾向だと感じています。

——最後に、今後「LIVE HOUSE AID」が目指すビジョンがあれば教えてください。

ひとりだと限界があるので、一緒に運営してくれるボランティアを募集中(笑)。また、このプロジェクトのスキームはオープンソースで公開しているので、どんどん応用して各地域でプロジェクトが立ち上がればいいなと思います。僕にご連絡いただければやり方はお教えしますので。すでにいくつか動き始めているものもあります。

僕、ずっとセコマ(セイコーマート/北海道民が愛するコンビニ)でバイトをしていたんですけど、道民であれば誰でも知っている歌手・タレントのYASUさんが歌う店内BGMにいつも励まされていました。だからYASUさんに参加いただくことも密かな夢ですね。地元のスターが参加することでより一層盛り上がると思います。

ゆくゆくは高校生バンドが参加したり、「LIVE HOUSE AID」に参加したくて音楽を始める子が出てきたり、札幌の音楽シーンを盛り上げていくような新たなミュージシャンが生まれるきっかけになれたら嬉しいですね。

(取材/文・三橋温子)


PROFILE


シンガーソングライター
村田知哉(Tomoya Murata)

札幌市出身のシンガーソングライター。2000年代後半から札幌を中心に活動。2013年には全国流通盤「Helvetica」をリリース。現在は東京池袋で会社を経営。LIVE HOUSE AID in SAPPOROも、神奈川の自宅で運営。